突然だが、私はタマネギが大嫌いだ。
なぜ大嫌いかというと超不味いからである。
なぜ不味いかといえばシャリっとした食感とタマネギ独特の苦味が嫌いだからだ。これは誰がなんと言おうが嫌いなものは嫌いであり私がそう思ったのだ。
玉ねぎが有名な淡路島に住んでいたこともあったが、採れたての美味しい玉葱とやらを口にしたが全くもって不味かった。これは誰がなんと言おうが不味いものは不味いと私がそう思ったのだ。
産地の方に失礼だ!と思うかもしれないが、なにも産地の方を嫌いだとか責めているわけではない。私がタマネギは不味くて大嫌いとそう思っているだけだ。
そう!タマネギは不味い!私はそう思う!
長ネギも大嫌いだ!味噌汁やラーメン、冷奴の上に長ネギを入れないでほしい!牛丼などの丼ものにも玉葱を入れないでほしい!豚の生姜焼きや長崎ちゃんぽんもタマネギが入ってると食べたくない!
玉葱が旨みや甘味を引き出すなんて知らない!玉葱の味がするだけでおいしくない!玉葱が入ってると瞬時にわかる!
私がそう思うのだから何も我慢してまで美味しいとは言わない。私がそう思うのだから何も迎合してまで玉葱が大好きだとは言わない。
これは自己中心的な考えか?私はそうは思わない。
先月、東南アジアにいったがコオロギをポテチのごとく現地の人はポリポリと食べていた。食べてごらん言われ、満面の笑みで食べれるか?コオロギが大好きだと迎合するのか?
コオロギを食べてはみたが不味った!とそう主張はしないのか!?私はコオロギが嫌いだ!と意見はないのか!?
なにもこのケースでいえば生産者の目の前でわざわざ意見や主張をするなんて野暮なことはしない。
ただこの意見や主張は、仕事やプライベートでもそうなのだが、私はこう思う!というものが必ず誰でもあると思うのだ。
しかし多くの人は、間違っていたらどうしよう、批判されたらどうしよう、険悪になったらどうしようなどと意見や主張をしない。
これはくだらない自己保身とも考えられるし、厄介事は御免だ等というのなら無責任以外の何者でもない。
もしも本当に「私はこう思う!」ことがあるのなら勇気を出して主張するべきである。私が少しでも正しいと思うなら意見を出すべきである。
あなたに意見や主張はないのか?
しゃべれよw
それができれば苦労しないんだよ、というのなら一生そうやって女々しく生きていけばいい。あなたが主張ができる場所はせいぜい居酒屋ぐらいだろう。
嘘も方便とはいうが、間違ってたっていいじゃないか、意見や主張を交換しようじゃないか、切磋琢磨とは本来こういうことではないか?意見や主張ができないということは信頼性や関係性もないといえるだろう。
おれは玉ネギが大嫌いだ!一生食いたくない!
こう主張し続ければ、いつの日か実家の食卓にはタマネギが出てくることがなくなった。意見や主張は1回では駄目なのである。繰り返し繰り返し主張し続けることが大事なのだ。
言葉に宿る、まさに言霊である。
タマネギ食べれる?